自分では適職と思ったが・・・

自分では適職と思ったが・・・

自分には、何が向いているのか?
私は小さい頃から夢があった。
その夢は自分に向いていることと思っていた。

初めて目指したいものを感じたのは中学生の時だった。
家に初めてのトランジスタラジオが仲間入りした。
それまで家のラジオの主役は真空管式の「超再生式」と云われる戦中から使われていたラジオだ。真空管式のラジオは電源スイッチを入れてから音が出るまでに数分と思われるくらいに時間が掛かる。まるで今でのパソコンと一緒だ。

平成生まれの方々には想像も出来ない事と思う。
そもそも「真空管」って何?
「超再生式」って何?
もしかして、「トランジスタ」って知らない?
そんな時代遅れのわが家に、手の平サイズの小箱のラジオが仲間入りだ、スイッチを入れればすぐ音が出る。しかもコンセントも不要で畑にも持って行かれる優れもののラジオに、私は物凄く興味を魅かれた。

幼少期から不思議な物の中を覗いてみたい私は、密かにラジオの裏ブタを小さなネジ回しを使って開けてみた。
真空管など一本も使われていない、その代わりに米粒ほどの部品がプラスチック(プリント基板)の板にいっぱいに挿され取り付いていた。

その時以来、私は目に見えない電子や電波に魅かれて行ったのだ。
中学校を卒業すると地元の高等学校の電気科へ進んだ。
元々アスペルガーであった私は、好きな電気科目は満点に近い成績を上げたがそれ以外は零点に近い。
学年の単位を何度も落第してやっと卒業した時には、地元の電機関係の会社のサービス課に入社した。
以来、ずっと40歳代になるまで、電機、電子、コンピューター系の仕事に就いてきた。
その仕事が自分に一番向いていると思ったし、三度の飯よりも好きだったからだ。

しかし、世の中にレーザーディスクやデジタル製品が出始めると問題が出始めた。
パソコンのソフトウェアの部分は理解できるが、ハード系(電子回路など)は徐々に難しくなっていった。
電子機器のメンテナンスや修理が主な仕事だったので、技術的に追いつけなくなると致命的だったのだ。
若手の技術者にどんどん追い抜かれるようになって、自分には頭脳が足りないと初めて自覚し、電子機器の畑から撤退したのだ。

その後、商売にも挑戦したがことごとく敗退した。
負債を抱えて事実上倒産。

結婚生活20年に終止符を打って離婚し、無一文からの再出発は、20年ぶりの会社勤務だった。
この会社勤務は物凄く好調で、そこそこの地位まで上り詰めたが、10年ほど経過したところで思わぬ出来事が起こり、再び奈落へと落ちた。
しかし、この会社勤務10年の期間までは体力もあって自信にも満ちていた。


離婚して家族を失い財産も失ったときの寂しさから、楽器(オカリナ)を独学で覚えて演奏したら、以外にも好評であちらこちらから、祭りやイベントでの演奏の依頼が舞い込んで、この期間には1時間の演奏で2万円ほど稼げた。これもまた大きな副収入となり潤った。楽器店の教室講師にもなった。
毎日多忙で充実した日々を送ったのだ。

私は有頂天になり、演奏家として此の先の人生を歩もうかと真剣になって取り組み始めた。そうして機材も揃えて投資した。
そうこうして絶好調と成ろうとした頃に、これまた突然に両手の指先が曲がる、原因不明の「へバーデン変形結節症」になったのだ。治療法の無いこの病気は指先の変形が終わるまでは激痛との戦いとなった。両手の10本の指先の激痛が収まるのに数年間を要した。もう演奏は出来ないと演奏家の道を諦めたのだ。数年後に指先の変形が収まった時には、醜く曲がった両手が残った。何かの祟りかなとも思った。

この両手の障害には本当に悔しくて、日々の生活も自棄になって行った。
ここまで積み上げた成果を、想定外の出来事で諦めなければ成らない事に自暴自棄になってしまったのだ。
それからは自堕落な人生を歩み奈落に落ちて行った。
そして、そこそこ上り詰めた会社も首に成ったのだ。

でも絶好調の期間は、体力にも自信があったので、スキューバダイビングやモトクロバイクや自動車ラリーなどで危険なことにも挑戦していた。
今思えば、何てまったく向いて居ない事に挑戦していたのだろうと思う。
何度か死を意識するような危険な目に遭ったのに助かったのは、今生きている必要があったから、生かされたのだろうと思う。

大型バスの運転の仕事や大型トラック運送の仕事、宅配の仕事など体力に自信が無ければ大変なのに、そういう仕事も当時は向いていると思っていた。
初めての場所にも迷うことなく行けたし、大型バスの運転もスイスイ出来たので、自分には才能があると勘違いした。
これら絶好調は吉運の賜物と、今ではつくづく思う。

10年間の奈落を経験した後には知人の勧めで知的障害支援施設での支援員の仕事を経験し、最後は老人介護施設で介護福祉士の仕事を経て、現在の占いの仕事に就いたのだ。
そもそも知的支援も介護支援も自分には向いて居ないと思ったが、周囲が適職だ、というので仕方なくやった感が強い。
「優しい」という部分だけを見て、人は判断したのだろう。

実際には、私にとって人生で一番きつい仕事だった。
介護や支援の仕事は、肉体的にも辛いし、ストレスも多かったし、職場のパワハラの対象にもなった。へバーデン変形結節症も過労から再発した。
もう無理は出来ない身体になっていた。
元々、生まれ持った健康運は最悪なのに吉運の時に良いと勘違いしていたのだ。知らないとは恐ろしい事だ。

現在の占術の世界に入って、つくづく思う事は、自分は何て向いて居ない仕事ばかりいっぱいやって来たのだろう、と云う事だった。

だが、多くの経験を積む上では最高の人生だったと最近になって実感している。金を出しても出来ない多くの経験をさせて貰った。

これらの多くの経験は仕事の面ばかりではない、プライベートな生活面でも様々な裏街道を歩いた、後ろ指差される人生でもあった。
しかし、後ろ指差される人生も、まともに人生を歩んでいる人には体験できない事なのだ。
それも多く体験できたことは、本当に私は幸せなのだ。
これから、その多くの体験を活かせられるステージを用意して戴いたと感じている。

人生って終盤に成って見ないと、本当の事は判らないものだ。
終わりに良いと思えたら最高の人生だったのだ。
それが最後の1年でも。


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